横井軍平:玩具作りの天才にして十字キーの発明者

横井軍平は1965年、花札の製造機械の保守を担当するため任天堂に入社した。彼の遊び心あふれる手作り玩具を見初めた伝説の社長・山内溥は、彼を研究開発部門「R&D1」の責任者に抜擢した。

横井は大ヒット作となった携帯型液晶ゲーム『ゲーム&ウォッチ』を生み出し、今日でもゲームの基本となっている十字キー(D-Pad)を発明した。彼の根底にある設計思想は「枯れた技術の水平思考」であり、それは成熟した、安価で信頼性の高い部品を使って、新しいゲームの体験を見つけ出すというものだった。

「枯れた技術とは、陳腐であるという意味ではない。それは信頼でき、手頃な価格で、大量生産されたシリコンであり、アクセシブルな驚きをもたらすものなのだ」――(ゲームボーイ開発者 横井軍平)

技術者たちの反対:なぜカラーディスプレイがハードを殺しかけたのか

1980年代後半にドットマトリクスゲーム(ゲームボーイ)を開発していた際、若い技術者たちはバックライト付きカラー液晶パネルの採用を猛烈に訴えた。しかし、横井はそれをきっぱりと拒絶した。

彼は携帯機の現実を理解していた。当時のカラーのアクティブマトリクス液晶はわずか2時間で電池を消耗し、販売価格も高騰させるからだ。横井はシャープ製の反射型モノクロSTN液晶を選んだ。セガのゲームギアやアタリのリンクスといったライバル機はフルカラーを誇ったが、単3電池6本を3時間足らずで消費し尽くした。一方、ゲームボーイは単3電池4本で35時間も稼働し続けたのだ。

湾岸戦争のサバイバー:溶けた外装、焦げた内部、それでも完璧に動き続けたテトリス。
湾岸戦争のサバイバー:溶けた外装、焦げた内部、それでも完璧に動き続けたテトリス。

ヘンク・ロジャース、アレクセイ・パジトノフ、そしてテトリスを巡る冷戦時代のレース

ソフトウェアがハードウェアを絶対に欲しくさせるものにした。任天堂は当初、『スーパーマリオランド』を同梱ソフトとして用意していた。しかし1989年、オランダのゲーム起業家ヘンク・ロジャースがあえて雪の舞うソビエト・モスクワへ赴き、ソ連の対外経済組織「エレオルグテクニカ(ELORG)」から、アレクセイ・パジトノフによる病みつきになるパズルゲーム『テトリス』の携帯機における世界権利を獲得したのだ。

ロジャースは荒川稔をこう説得した。「マリオを同梱すれば、少年たちが買う。だがテトリスを同梱すれば、企業の重役からおじいちゃんおばあちゃんまで、あらゆる人が買うだろう」。テトリスによって、この携帯機はどこにでもある文化的ライフスタイルのアクセサリーへと昇華した。

「1989年、テトリスのためにモスクワの雪道を歩いた時、私はこのソフトウェアが地球上のすべての人のポケットに入る運命にあると確信していた」――(ザ・テトリス・カンパニー会長 ヘンク・ロジャース)

湾岸戦争のサバイバー:プレイし続けた炭焦げのゲームボーイ

横井の設計による物理的な頑丈さは、1991年の湾岸戦争の際に伝説となった。サウジアラビアに駐留していた軍医のステファン・スコギンスは、兵舎にゲームボーイを置いていた。空爆の最中、その兵舎は全焼してしまった。

燻るがれきの中から、スコギンスは溶け、炭化したゲームボーイを発見した。気まぐれに新品の単3電池を入れ、スイッチを入れてみると、起動音が鳴り響き、液晶が点灯し、『テトリス』が完璧に起動したのだ。その炭焦げのサバイバーは、ロックフェラーセンターにある任天堂のフラッグシップストア「Nintendo World Store」で何十年もの間、展示され続けた。