カリンスキーのドクトリン:日本本社が「正気の沙汰ではない」と見なした4つの手腕
1990年、任天堂はアメリカのゲーム市場で90%という圧倒的なシェアを握っていた。セガ・オブ・アメリカのトップに就任した元マテル社の最高経営責任者トム・カリンスキーは、大胆な4つの計画を立案した。ハードウェア価格を149ドルに値下げし、同梱ソフトを『獣王記』から『ソニック・ザ・Hedgehog(ヘッジホッグ)』に変更し、欧米向けのスポーツゲームに巨額の投資を行い、そしてTVCMで任天堂を容赦なく挑発することだった。
東京の本社幹部らはカリンスキーの提案を商業的自殺行為とみなしたが、当時の社長である中山隼雄はこれを承認した。結果として生まれた「Genesis does what Nintendon't(ジェネシスは任天堂にはできないことをやる)」キャンペーンは、若者カルチャーを根底から塗り替えた。
「我々はマリオを幼稚園児向けのものとしてブランド化した。そして十代の若者たちにこう伝えた。『任天堂で遊ぶならガキ、ジェネシスで遊ぶならクールだ』と」(トム・カリンスキー、元セガ・オブ・アメリカ社長)
ブラスト・プロセッシング:ゲーム史上最大の神話の解剖
ハードウェアの処理速度の差を強烈に印象づけるため、セガは有名なテレビCM「ブラスト・プロセッシング」を放映した。それは高速のドラッグレーサーが、のろまな任天堂のバンを粉砕する映像だった。
実際のところ、プログラマーのマーティ・フランツは、アクティブスキャンライン中にDMA転送をビデオディスプレイプロセッサに直接実行することで、通常のパレット転送制限を回避できることを発見した。マーケティング部門はこのハードウェアの微小な技術的ニュアンスを拾い上げ、伝説的なマーケティングの神話へと仕立て上げたのだった。

1993年の米上院公聴会とESRBの誕生
1993年9月の『モータルコンバット』発売により、コンソール戦争は最高潮に達した。任天堂は血を汗に置き換え、首切りの残酷描写を削除してカセットを検閲した。一方、セガは血の色を灰色(汗として処理)にしたものの、不滅の隠しコード「ABACABB」を入力することで無修正の残虐描写をアンロックできるようにした。
ジェネシス版はSuper Famicom(SNES)版の5倍の売上を記録し、ジョー・リーバーマンとハーブ・コールが議長を務める米上院の物議を醸す公聴会の引き金となった。連邦規制の圧力を前に、ゲーム各社は団結し、1994年にエンターテインメントソフトウェアレーティング委員会(ESRB)を設立した。
「ビデオゲームは、理由なきデジタルな暴力の領域に足を踏み入れている。業界が自らを取り締まらないのであれば、議会が動くことになるだろう」(ジョー・リーバーマン、アメリカ合衆国上院議員)
勝利の代償:米国の圧倒的支配がセガの内部に亀裂を生じさせた理由
1993年のホリデーシーズンまでに、セガは米国市場の驚異的シェア55%を掌握した。しかし、その前例のない大勝利は、東京の本社に苦々しい社内嫉妬の種をまくことになった。
市場の支配を盤石なものにするどころか、日本本社の経営陣は不運に終わったSega CDや32Xによってブランドを分裂させ、最終的には1995年のセガサターンにおける失敗に満ちた奇襲発売へとつながり、血と汗で勝ち取った帝国を台無しにしてしまった。



