『スペースインベーダー』と日本の100円硬貨不足都市伝説
1978年夏、タイトーのエンジニアである西角友宏氏が『スペースインベーダー』を発表した。それはビデオゲームが初めて侵略的なエイリアンの大群と対峙した瞬間であり、日本全国で熱狂的なブームを引き起こした。東京中に出現した「インベーダーハウス」には、単色のCRTモニターがズラリと並べられた。
このブームは、「日本造幣局で100円硬貨が深刻な不足に陥った」という都市伝説を生んだ。実際には、数百万枚ものリアルな硬貨がアーケード運営者のキャッシュボックスに直接溜め込まれたため、通貨の流通速度が一時的に停滞しただけであった。
「アーケードは単なる遊園地ではなく、わずか1平方フィートのカーペットの上でリスペクトが交わされる、世俗の大聖堂であった。」(アタリ創業者 ノーラン・ブッシュネル)
1991年:『ストリートファイターII』はいかにしてゲームセンターを闘技場に変えたか
1980年代がハイスコアのランキングを競う孤独な追求の時代だったとすれば、1991年3月はインタラクティブな競争の概念を永遠に変えた。カプコンが重量級のCPシステム(CPS-1)基板で動く『ストリートファイターII -The World Warrior-』をリリースしたのだ。
直接的なプレイヤー対プレイヤーの対戦が幕を開けた。三和電子製スイッチの小気味よいリズム音以外は、緊迫した静寂が聖域を包み込んだ。下部のガラスベゼルに光るコインを置くことで、勝ち残り王者への挑戦権を主張するという共通のエチケットも生まれた。

審判の日:3D家庭用ゲーム機が欧米のアーケードを追い詰めた理由
20年もの間、アーケード基板は技術の頂点に君臨し続け、セガの「Model 2」(『デイトナUSA』など)やナムコの「システム22」が叩き出す圧倒的な描画能力に家庭用ゲーム機が追いつくことはなかった。しかし、1990年代後半になるとその格差は消え去った。
セガサターンやPlayStation、PlayStation 2、そして初代Xboxの登場により、コインオペレーションのグラフィックスがそのまま家庭のテレビ画面に再現されるようになった。コインを投入することなく、リビングでマルチプレイを楽しめる環境に直面し、欧米の何千ものアーケードが数年のうちに姿を消していった。
MAMEと現代のキュレーターたち:ビットローティングが進むROMとCRTチューブの救出
今日、アーケードの歴史は情熱的な保存運動によって支えられている。1997年2月にイタリアのプログラマー、ニコラ・サルモリア氏によって設立された「MAME(Multiple Arcade Machine Emulator)」は、マスクROMがビットローティングによって永久に失われる前に、消えゆくシリコンの論理回路を記録した。
熱心な修復家たちは、CRTのフライバックトランスを愛を込めてリキャップし、活気ある「バーカッド(Barcade)」で木製のアップライト筐体を蘇らせている。暖かいネオンの光の下、コインの音が再び響き渡り、アーケードの心臓音を脈打たせ続けている。
「『ストリートファイターII』は、対戦相手が互いの目を合わせられるように設計されていた。オンラインのマッチメイキングは、現実のアーケードが持つ電流のような熱気を決して再現することはできない。」(『ストリートファイターII』プロデューサー 岡本吉起)



